命のつかいみち


これは、柴田がブログ管理人に語ってくれた話です。※会話調なのはそのためです

命のつかいみち


地震が起きた時、オレは石巻文化センターっていう、うちから歩いて5分くらい のとこにいた。

そこで、七宝焼を作っていた。お絵描き教室で使うバッヂを作ってた。

その日は渡波(わたのは)教室がある日で、
四時から教室なので午前中から七宝焼を作っていて、
三時までやるつもりだった。

そんで二時五十分。地震。

すんごい揺れて。七宝焼で使ってた千度の炉が半分くらい落ちてきて、あやうく火事になるーって、
電源をぬかなきゃ、って思ってたら勝手にぬけて。色々なものが勝手に落ちてきた。

そんで外みたら、みるみる北上川がひいていく。
こりゃ「やべーやべー」って
姉ちゃんと「にげっぺにげっぺ」って言って、
とりあえず柴田家に集合。

母ちゃんが家にいて、まだうろうろしてんの。
姉ちゃんに母ちゃんを頼んで、門脇小まで歩いていってもらった。
うちは避難場所は門脇小学校って決めてたから。

オレは車にのって、地域のひとに注意してまわっていたんだ。
そしたら前から来た車がパッシングしてくれてね。その車のうしろから津波が押し寄せてんの。

その時は川の方に向かって、車を走らせていてさ。
すぐUターンして「にげろーっ」て叫びながら逃げてね。
門脇小学校に急いで避難した。後ろからはもう津波が来ていた。

後ろには車がまだいっぱいいて、門脇小の校庭にも避難していた車がいっぱいとまっていた。
校庭の方から津波がくるの。
オレはそのへんの人に「にげろっ」「にげろっ」て声かけながら、
今まで人生の中で一番早くダッシュしたよ。
水が来るというよりがれきと家が押し流されて来てた。

百台近くあった車ががれきと校舎にはさまれていく。
潰れた車からガソリンが漏れて火がついて爆発がいたるところで起こってた。
オレは学校のわきにある階段を走って登ってった。
校舎の一階から二階部分まで水が来たかな、水というか、がれきが。
学校の玄関は車とがれきでもう通れない。

実は門脇小の児童は既に日和(ひより)山に逃げていたんだ。
でもオレは家族がまだ門脇小の中にいると思ってさ、
門脇小の中に閉じ込められていた人たちも助けようとしていた。

玄関は車とがれきで通れない、車は潰れてガソリンに引火して燃えている。
校舎にも火がついた。でも玄関からは出られない。
門脇小は校舎の裏山ががけになっていて、校舎の二階とがけの間は1メートルはある。
若いひとはジャンプして、崖に飛び移っていた。

でも体の弱いお年寄りとかは無理。学校の中から板を持ってきて橋を渡した。
そして、そういう人たちを崖からひっぱりだした。

裏山は墓になっているんだけど、
墓の路地を抜けると、最初猛ダッシュで逃げた階段につながっている。
墓地を抜けて階段までたどりつく。だいたい四十〜五十段くらい。

校舎には五十人くらい閉じ込められていた。
若い人たちに「救助するの手伝ってください!」て声かけて、
門脇小の裏から救助するんだけど、お年寄りは渡るだけで大変。

お年寄りの人は歩けないんだよね。
「歩けー!、生きるんだよ!」

小学校からはどんどん火がまわって煙が出てきている。
オレ今まで年上の人にこんな言葉吐いたの初めてだよ。

でも、進まないから詰まってきている。
もう、早く出ないと進まないと後の人が出れないんだよ。
中には歩けないおばあさんとかいるから、
おんぶして連れだして、階段までおんぶして上がっていってさ。

階段が終わったあとは坂道になるんだけど。
そこまでおんぶしてその辺の人に後お願いって言って裏山にまた戻って。その繰り返し。

流れてきた車と校舎にはさまれて、足がちぎれちゃった人も運んだ。
山の上には幼稚園があって、そこまで運んで、
救急車は来れないからそのへんの人に車を呼んでもらってさ。
その時はまだ携帯がつながったんだ。

一人ずつ救助して十人以上おんぶして運んだかな。石巻は雪が降っていてさ。
門脇小学校に残っていた人は全員避難させた。

全員助けたあと、校庭のほうから「助けてー」の声が聞こえた。

がれきの山のぼって、どこだっーて叫んで、こっちこっちって声の聞こえるほうへ。
行きたくなかったけど、でもしょうがないから行った。火事がどんどん凄くなってる。
周りはいつ爆発するかわからない状態で、助けに行った。
そんな中でおばちゃんは「わたしの毛布がー」なんていってる。
うるせーって言ってやった。水でずぶぬれのおばちゃんをかかえて助け出した。

門脇小には小学生がいなかった。家族もみつからなかったから、逃げ遅れたんだと思った。絶望した。
その時「ああ、オレは一人ぼっちになっちゃったなあ」と思った。家族がいない。
でも家族の代わりってわけじゃないけど、その分まわりの人を助けようと思った。

階段登って坂道の上の幼稚園のところあたりで叫び声が聞こえる。
がけの下、がれきや崩れた家に押し寄せられた家の屋根に人がいる。
下からは火があがっている。たすけてーって声が聞こえる。一人じゃどうすることも出来ない。

近くにいた避難した人たちに声かけて、ロープつかって、みんなで協力して、おりて、
玄関とか崩れてて、どこからも入れない。
がけの方からおりて、がれきをわたって二階から助けた。
そんな逃げ遅れた人たちが十人くらいいた。

見える範囲はみんな助けた。重いおばあさんは二人がかりで運んだ。
いつの間にか手に血が流れてる、どこかで傷ついたらしい。痛みは感じない。
でも間違いなく俺の血だ。

いたるところで爆発があり、火がついて、どんどんその範囲が広がってきた。
助けたばかりの家いえが燃えていく。

せめて声が聞こえたところは見殺しにしなくて良かった。
でもがれきの奥にも人がいるのはわかってたんだ。絶対いた。

でもそれ以上は無理だ。オレは見てみぬふりをしたんだ。ただ目の前の人を助けた。

火の向こう、がれきの奥、そこにいたのが家族だったら行ったかもしれない、

けど、知らない人を助けにいくことはできなかった。

それから二、三時間後にはそこは火の海になった。

もう、オレは、その場にいた人たちを助けられたからよしとする。
…でも、やっぱりそこには確かに人はいたんだ。いっぱいいた。

救助活動して、三時間ぐらいしてまわりは暗くなって、ようやく消防士さんがきた。
ほっとした。これで役目を変わってもらえる。
とてもじゃないが火の海のなかガレキをわたって救助活動はできない。

そういえば消火活動を手伝ったりしてる中で、
火の海のがれきの中から飛んできたひとがいた。

その人は、屋根の上にのぼって津波を避けて、
その後がれきの山をのぼってオレたちがいる所までやってきた。
それから石巻市立女子高校に連れて行ったんだ。
そんでその受付では、情報収集できるところがあって、
オレは門脇小の子供たちの行方を聞いたんだ。

すると、どうも日和山に逃げたらしいことがわかった。
それだけでもものすごく安心した。津波にのまれたと思ってたからね。
でも家族の行方はわからない。

被害の少ないほうへ歩いていると「助けにきて下さい」って呼びにくる人がいる。
屋根の上に避難して取り残されているって話だった、でもそうじゃなかった。

津波にのまれたあと、その建物には塀があって、
逃げ場をなくした津波が体を屋根にのせただけだった。
屋根に逃げたわけじゃない。すでに死んでいたんだ。

オレのかかりつけの眼科の先生だった。
ロープかけておろし、また運んで。大人六人で運ぶ。重い。
先生を道路のわきの目立たないところまで運ぶ。

先生、こんなところでごめんな。こんな汚い毛布でごめんな。水びたしでごめんな。
雪がちらつく。

そのあとは消防団の二人と合流して三人で火事場の後方支援にまわった。
交代で消防署の詰め所にいって一時間ほど休憩させてもらった。

三人が一緒になって動いていたんだけど、オレは耐えられなくなった。
休憩のとき消防士さんの邪魔になるのが耐えられなかった。外は雪も降っていてすごく寒い。

プロの消防士さん達はオレたちに気を使って、
ストーブの近くを譲ってくれて暖をとらせてくれるんだ。
ホントは消防士さんだってすごく寒いはずなんだ。なのにオレたちが邪魔をしている。
貴重な水だってわけてくれた。

だから一緒にいた消防団のリーダーに言ったんだ。

「オレは耐えられないっす。我々も一般人におりて、邪魔にならない方がいいんじゃないですか。」
でもリーダーはうんと言わなかった。

おれはこの時にやめると決めた。でもこの一晩だけは我慢した。
朝方、日和山に行った。友達の大ちゃんが山にいるのはわかってた。
大ちゃんと合流して車の中で休ませてもらった。

大ちゃんからあけぼの方面の知り合いの家 にオレの家族がいるという情報を聞いた。
初めて生きた心地がした。

すぐ山を降りて向かおうとすると、山のまわりを水がかこんでいるんだ。
肩から腰の高さくらいまでかな。お城の水攻めのように。それに車がいっぱいあった。
携帯も通じない。オレは孤立していた。だから東京のみんなにも連絡とれない。

そんで、また山に戻っていったら、
そしたら本当に偶然なんだけど、
前方に姪っ子と甥っ子と姉ちゃんが歩いていたんだ!
そこで車から飛び出してさ、「あかりー!ゆうきー!」って叫んで。

朝がたに家族全員と合流できたんだけど、避難先の知り合いの家にいるのは申し訳ないから、
石巻高校が避難所になっていて、そこに行ったんだ。

避難所は水も食べ物ない、暖房だけはあった。最初の日に配られた食料なんだと思う?
せんべいがひとり一枚。
水はペットボトルがあったかな。

でも、あったかいから、それだけでもうれしい。毛布もないので、床にゴロ寝。
十二日の夜はそこで一晩過ごした。
十三日、配られたのは温めるまえのレトルトカレー。
温める方法ないしね。全部で10パック。これを二百人で食べるんだぜ。
オレたちは家族で分けた。あとはお菓子が少し。それも子供とか優先で。

柴田家はさ、防災バックを持っていたので、ビスケットやチョコレートがあった。
だから我々はお菓子はもらわないでおこうってなった。

その時の石巻はさ、通信手段、交通手段も何もない。出られない。
災害情報をまとめていたのが、市の職員だったけど、
たぶん元々の能力もなかったんだと思うけど、
本当に全然動けない。指示がないと何もできなかった。

市は全然だめで、みんなもオレが市とのつなぎをやってくれていると思っていた。
配給物をわけたり、くばったりするのね。豆腐を3切れずつとかね。
役所の平等悪のせいでこんなへんな指示がくるの。
それを喧嘩にならないようにみんなに配ったりね。

それから二、三日お世話役を続けてたら、他にリーダーをやってくれるような人が出てきた。
俺よりももっとしっかりした年配の方が。俺は任せることにした。

震災から一週間くらいかな、
街の道に残った津波の水が少し減って歩ける距離が少しだけ増えたころ、
避難所はもちろんまだ電気もない。歯も磨いてない、当然風呂も入ってない。
夜は六時くらいには周りは暗く、寝るしかない、寝ても夜十時くらいに目が覚めて、眠れない。
起きてもやることない、ほんで、本当暇なのね。昼間も雨だと歩けないし夜もやることないし。
ご飯食べて水飲んで。寝るところはあるし。

スケッチしに震災した街に出たが描いてる途中で吐き気がしてくる。ちょっといまは描くになれないなと。

そんでね、そこからこの残った命を使って何しよう。って考えた。絵も描けない俺が何できるだろう

オレは一体何ができるのか。
そしたらお絵描き教室しかないなあ、そんで子供のケアだべなあと。

その頃にやっと携帯が復活して、東京のタチバナと電話できて、
この教室の協力と物資を送ってくれって話をしたんだ。
まだまだ道路は出来てなく流通もしてなかったけど。

避難所のリーダーたちの会議があって、そこで子供のケアを提案したんだ。
そしたら、リーダーの一人の高橋さんが「いいね」と言ってくれた。
そんでとにかくやってみることにした。

避難所の近くの無事だった近所の家をまわって、
こんなことするからペンとかクレヨンとか紙とか下さいって、
良子さんやゆうきやあかりに協力して貰ってかき集めた。

本当はお絵描きに通ってた子供をみてあげたい。でもいまは出来ない。
おれにいま出来るのは避難所のこどもたちにやってあげることだけ。

その頃は、新聞が届くようになったんだ、そこに安否情報がのるんだよ。
お絵かき教室のこどもが二人亡くなってた、行方不明が一人いた。
いまも連絡のつかない子がたくさんいる。悲しい。悲しすぎる。剣道の仲間も亡くなった。

逆に人づてに俺が生きてるの聞いて、何とかオレに連絡とってくれようとしてる子供もいた。

だからね、いま一緒に生き残った人たち、避難した人たちも含めた、
いま生きてるみんなのために生きようって思ったの。みんなも生きようって。

じゃあそうやって命を使おう。残った命をそう使おう、
と思って今に至ってます…

やるべきこと。今「生きてる石巻の人」に生きて欲しい。
なくなった人の分まで生きて欲しい。

===================================
これが「命のつかいみち」と説明したあとも、とりとめもなく電話は続いた。
===================================

石巻の現状、仕事もない。家もない。家族もない。
お先まっくら。市の方は何も言ってくれない。
光が見えないんだよ。

普通のひとたちは自分の力じゃできない。結局いつも何かを待ってるんだ。
だれかが、国が、なんとかしてくれると思ってる。

さっきタチバナに電話で怒りのメールを書いてるっていったじゃない?
それはさ、オレのよく知らない人に絵を描いてくれと言われたんだ。

そんな、オレの気持ちも描く気にもなってない。何もない。
百号のキャンパスと絵の具送るから描いてくれよと。
何言ってんだよ。そんなの置く場所、描く場所がどこにあるんだ。
いまは描きたくない。描きたくなったら描くよ
善意の押し売りはやめてくれって。

この石巻の現状がわからない。ただ被災してわからない。先が見えない。
精神的な不安をみんな持ってる。それを何とかしないといけないんだよ。

市が今一番だめだ。ひどすぎる。
オレはある意味自立してるからいいけど。
そんな市がまだ何かしてくれると思っているまわりのひとたちがいる。
そんなひとたちを何とかしないと。

市役所のひとたちは仕事が今までもあった。これからも給料は入るじゃん。
それなのに「人材がいません」とかぬかすんだよ。

今日本中から物資が送られてくるけど、いらないものとか必要ないものとか。

でも復興で仕事をくれ。仕事をしたいやりたくてもできないんだよ。みんな石巻に残りたいんだよ

物資をくれじゃなくて、復興のための仕事が欲しい。

それがわたしの気持ち。

それでも市はボランティアを三人くらい紹介してくれた。
今まで何やってんだよ。って思う。それでも頭を下げて、
おだてて、利用してやらないと。
やりきれない、行き場のない。

震災後はじめて風呂にはいったのは八日目だった。
最高だったね。
オレは姉ちゃん家があったからね。
あけぼのは石巻でも被害が一番すくないところだった。
電気と水道がつうじてね。
九日目に初めて歯を磨いた。

オレの友達は昨日はじめて風呂にはいったってよ。三週間以上だ。

風呂はいった次の日さ、すぐバレたんだよ。避難所の仲間に。バレると思ってヒゲは
そらなかったんだけどさ。「なーんか髪がさっぱりしてるんだよねー?」って言われてバレた(笑)

ビール飲んだのが2週間目
350缶半分でべろべろになった。
めちゃくちゃうまかったよ。
めちゃくちゃよっぱらった。

一番不便だったのがコンタクトだな。
メガネは流されたし。オレは使い捨てだったから、二日目くらいであーこりゃやばいなーって思って。
それから裸眼でなんとか。仙台に行けるようになったのは十日目。そこでメガネ作った。


カテゴリー: 命のつかいみち パーマリンク

命のつかいみち への20件のフィードバック

  1. かやま のコメント:

    何か書こうと思い 何度も書いては消して、最後には何も書けませんでした 被災地の柴田さんの力強さを逆にいただき  1歩1歩 1日1日 少しでも明るくなるといいですね 

  2. 匿名 のコメント:

    一歩一歩前に進もう 今日も頑張れ

  3. うるるん のコメント:

    文字で拝見するだけも、
    目をそむけたくなるあの日の現実。
    実際に、映像として目で観て、
    肌で感じた柴田さんの心の中を思うと、
    胸が痛いです。
    命がけで命を助ける。
    なんて強いんでしょう。
    なんてありがたいのでしょう。
    助けられた命がたくさんあります。
    大切な命を100%以上使っていただきました。
    どうか、どうか、
    ご自分を責めないでください。
    今、子どもたちを助けていただいている柴田さんはじめ、
    スタッフの多くの大人の方々も、
    被災者のひとりなんだと、
    改めて感じました。
    これは、とても大事なこと、
    大事な真実なんだと、
    肝に命じたいと思います。
    早く、一日でも早く、
    みなさんが安心して笑って、
    食べて、眠れる。
    そういう当たり前だった
    日常を取り戻すことごできるように、
    祈り続けます。
    そして、もちろん、
    祈るだけではなく、
    私は、私ができることを続けていきます。
    休息も忘れずに、あきらめずに、
    一歩ずつ前へ。

  4. ナヲ のコメント:

    つらい話を伝えていただきありがとうございます。
    言葉を失いました。
    そして、ただただ、柴田先輩やご家族が生きていてくださったことが
    本当に私は嬉しいです。
    人に絶望することもたくさんたくさんあると思いますが
    柴田先輩が多くの人を助けているように
    人を救えるは、やっぱり人なんですよね。
    私はその力を信じています。

  5. 三橋 由記子 のコメント:

    凄まじい状況…
    生きていた事が本当に奇跡に思えるような状況です。
    胸が締め付けられました。
    できる事精一杯したと思います。自分の命も危ない時に、こんなに行動できるなんてしげはやっぱりスゴイよ。パワーがある。
    そんな風に思えないかもだけど、その力
    をこれからも自信にして、周りの人を引っ張って行ってください。
    きっと誰でもできる事では無いんです。
    けど頑張り過ぎはダメだから、ちゃんと力抜く時は抜いてくださいね!
    私も考えます、命のつかいみち。
    皆さんが命をもって教えてくれた事を大切にします…

  6. 匿名 のコメント:

    読まさせていただきました。
    先輩と、その悲惨な状況が刻々と蘇ってくるようで、
    どう言葉をかけてよいか分からなくなってしまいました。
    自分も先輩のように、できることをやります。
    こんな時だからこそ、先輩の笑顔で、たくさんの笑顔を広げてあげてください。
    そして、休める時には、しっかりゆっくり身体をいたわってください。
    明日、昨年度までの上司が仙台のNPOのネットワークを通じて子どもたちへ"遊び"を届けるために石巻に向かいます。
    みんなの笑顔が次を作る。先輩の一歩を、見届けています。

  7. さいとうたけし のコメント:

    壮絶な惨状だったのですね!! 何十人、何百人と助けたのですね! そういえば、地域の青年消防団に所属してましたね! もともと 見て見ぬふりが出来ない優しい心の持ち主 守れる助けられる命がそこにあれば、自分の危険をも顧みず人助けに徹した姿 立派です!! ケガは大丈夫なのでしょうか? この悲惨な現実は、一生忘れる事は出来ないでしょう。また、いやな夢も見るかもしれません。出来る限り精一杯やったのですから 自分も被災しながら地域の子供たちの笑顔を作っているのですから 決して自分を責めないで下さい。助けられる命は助けたのです。結果、何百人、何千人と感謝する人たちがいるはずです。必ずあの潮のにおいのする自然豊かな石巻が戻って来るでしょう。子供たちに夢を見させてやって下さい。東京からですが 応援しています。

  8. 須崎 哲朗 のコメント:

    悲惨な状況だったんだな…
    そんな中でものすごい行動力…
    自分が同じ立場だったらそこまで出来るか
    自信ないなー。
    君のその行動力と優しさが、多くの人を勇気付けて、元気を取り戻していることでしょう。

  9. みか のコメント:

    ブログ読ませていただきました。パワーをもらってます。わたしは今アメリカで義援金活動に参加してるのですが、そこで会った日本人大学生さんたちはとても頼もしいです。落ち込んでる暇があったら行動する、勉強する、という姿勢です。義援金活動やチャリティーイベントなどを、山のようにある課題をこなしながら頑張ってくれてます。政治や教育のこと、日本の未来のことをしっかり考えていて、努力も意欲も素晴らしいです。こんな若者が日本の将来を支えるんだから、メディアがなんと言おうと日本の将来はきっと明るい、明るくするんだって思います。アメリカ人の生徒さんもとても積極的に義援金活動を引っ張っていってくれてます。いろんな国の生徒さんが毎日募金してくれてかなり集まりました。
    このサイトをここパイオニアベリーの5大学に紹介したところ、「柴田君のがんばりを、必ずサポートしていきます」「遠いところから、君の背中を支えてるぞ」というコメントやメッセージをいただきました。学生さんたちからも、柴田君達を、こども達を応援してる、彼に伝えてくれと言われました。日本語が読めない人のために、彼らは今このサイトの英語への翻訳を手伝ってくれています。柴田君のがんばりに、みな心動かされています。柴田君やこの活動に関わる全ての人、こども達、みんなのがんばりに感謝しています。

  10. タチバナ のコメント:

    みなさん気持ちのこもったコメントありがとうございます。
    この活動がはじまってしばらくしてからでしょうか、
    彼から「この活動をはじめた理由を話したい」と言われました。
    少しずつ、彼らしくない小さな声でしゃべってくれました。
    お絵描き教室の子供の話になると、
    普段涙など見せない彼が震える声を無理矢理しぼり出していました。
    しゃべり終わった後、
    「ずっとだれかにしゃべりたかった。」
    と言っていたのが印象的でした。
    ぜひ多くの方に彼の「命のつかいみち」を知ってもらえればと思います。

  11. 大森 のコメント:

    記事を読ませていただきながら涙がでてきました。
    命を粗末に考える人たちにも是非、これをみて欲しいと思いました。
    
「歩けー!、生きるんだよ!」という柴田先生の言葉が頭を離れません。
    自分も被災者でつらい状況にも関わらず、周りの方たちのことを考えて行動されている先生のおかげで救われている人は何十人もいると思います。
    先生は発生時に多くの命を救い、いまも多くの人たちの命を救っておられると思います。
    ただ一つ心配なのは先生自身の過労です。
    あまり無理はしないよう、休むときにはしっかり休んでくださいね。

  12. ミチル のコメント:

    話してくれてありがとう。
    読んだそばから色々な感情が渦巻いて、心がえぐられるようでした。
    耐えきれなくて、家族や友人にブログを見るように言いました。
    そうすると、痛みを共有したようで、少しホッとしました。
    読んだだけの人間がこうなんだから、柴田君の心中は計り知れません。
    でも、話してくれて本当によかった。
    そして、もっと多くの人に知ってもらおうと思いました。
    テレビや新聞の情報だけは知り得ない震災の話によって、私たちは日々の暮らしや行動について、本当に考えます。
    そして、震災のことを絶対に忘れない。
    知ることは、そのためにとても大事だと思いました。
    誕生日おめでとう。
    あなたのキラキラした力強い命が本当にうれしいです。

  13. 匿名 のコメント:

    復興に向けて前向きな一歩を踏み出し始めた矢先のこの大きすぎる地震、柴田君や子供達は無事だったでしょうか?
    石巻の惨状をテレビやインターネットで見てなんて声をかけていいかわからずコメントできなかったのですが、本当に心配です。
    とにかく、命第一。命さえあれば、後でなんとでもなる。
    今回の余震で被害が出ていない事を心から祈っています。

  14. 篠原 のコメント:

    先ほどお電話した篠原です。
    電話のときには、遊んでいる子ども達の様子をHPで取り急ぎ確認していたので、こちらの記事まできちんと読んでいませんでした。
    ぶしつけなことをお聞きし、大変失礼いたしました。
    再度お電話するのも申し訳ないので、こちらに描かせていただきました。
    その場でしかわからないことがきっとあるのだと思いました。
    また、日にちを改めて、お話しをお聞きさせてください。
    お忙しいのに、本当にごめんなさい。

  15. このあいだ20年ぶりに会った同級生H のコメント:

    柴田の地獄のような経験、拝見させていただきました。正直、柴田には人以上の何かが感じられた。
    柴田に俺からかけられる言葉はおれ自身見当たらない。柴田、あんたがした行動は神の領域だと思うよ。今やっているこども避難所クラブ、将来のこどもたちの明日を作ってくれてありがとう。柴田の体力が続く限り、あまり無理せずこれからもがんばってください。ちょっと矛盾してるかな(笑)そのうちゆっくりと飲める日がくるようお互いがんばりましょう。

  16. グレイ水野詠子 のコメント:

    心の内を、あの日起こった現実を、私達とシェアしてくださりありがとうございました。泣くことしかできない自分に腹も立ちましたが、胸が熱くなりました。
    どんな想いで、皆さんが闘い、生き、支え合っているのかを聞かせて頂けれたことに、感謝しています。幸いにも、被災地に居ずに、健康で何不自由なく暮らしている私達にできることは山ほどあると、柴田さんの力強い語りに、改めて背中を押して頂きました。
    小さなことですが、これからも長期的に避難所の皆様に映画を届けて行きたいと思います。また、メールにて活動レポートも送らせてください。
    どうぞ、お身体に気を付けて、子供達の味方としてご活躍を続けてください。

  17. ちょうさん のコメント:

    命がけの郷土を愛する青年の行動に感動です。
    まさか火の海に包まれているとは知りませんでした。
    勇気に多くの人たちの命は救われたのですね。
    こんな中で市にたいする批判もありましたが、大本の国は何やってるんだと、憤りを感じますね。
    これから背負っていく子供たちに夢を与えて下さいね。

  18. かみのやま のコメント:

    先生、3・11の出来事
    読みました。あの日の事はもう頭の中から消える事はないですね。無力で毎日震えていました。恐ろしさで避難した山から下りれませんでした。子供たちが生きてる、それがなによりの心の支えになっています。今だに、夜は目が覚めて考えてしまいます。亡くなった仲間、友達、地域の人・・・
    胸がギュウッと苦しくなります。だけど、生きてる。私は生きている。みのりもすやすや寝息を立てて眠っています。いのちのつかいみち、読んでよかったです。先日、お会いした時、少し顔色が悪いように見えました。みのりも、先生は何か違ってたと言っていました。お体大事になさってください。

  19. はるみそ のコメント:

    先生お久しぶりです。
    あの日のことを思い出し胸が苦しくて眠れない時に読ませていただきました。
    壮絶な経験をされたのですね。あの時子供達は学校で、まして下の子は下校時間…家には母がいて私は職場で仕事中。仕事柄地震だからといって職場を出るわけにはいかず対応していたらあの警報が鳴り、結局職場の屋上で凄まじい光景を目の当たりにしました。日和山の向こうが炎で赤くなり煙が上がっているのを見て燃えているのは門小ではないか、子供達は大丈夫なのか、向こう側は一体どうなっているのか、母は?家は…?と繰り返す津波で身動きがとれず、立場上周りをなだめなければならない自分が一番取り乱していました。そんな最中で先生はどのような行動をとっていたのか、ほんの一部でしょうがどんな気持ちだったのか…知ることができました。私も2軒隣の建物の樋に人がしがみついているのを見ましたがどうすることも出来ませんでした。その方はどうなったのかはわかりません。私は助かりましたが今も目を閉じるとあの光景が浮かび犠牲になった母が流される姿を想像してしまい胸が苦しく涙が出ます。でもうちの子供達は2人とも運良く無事でした。ばぁばがいなくなり続けてじぃじも亡くなり心の傷は受けていると思いますが私が気を引き締めて助かった命を大切に育て共に過ごしていきたいと思います。ハルトにはせがまれていますが仕事で都合がつかず教室に連れて行くことが出来ず残念です。ハルトの生き甲斐だった先生の教室にまた通わせられればいいなぁと思っております。お体を大切にして下さい。

  20. 日福大A.T のコメント:

    第3クールでお世話になりました一学生です。この記事をもっと早く読んでいればよかったと思います。
    にじいろクレヨンの背景には、私たちの予想をはるかに超える体験・思いがあるのですね。
    柴田さんの“命のつかいみち”にほんの少しでも携われたことに本当に感謝致します。
    今回は、避難所にて主に清掃を通してのコミュニケーションや子どもたちと遊ぶという活動を行いました。子どもたちの言葉の背景にあるもの、避難所に住んでいらっしゃる方々の表情には私自身、やるせないような感情が込み上げてきました。
    しかし、時折「ありがとう」「ごくろうさん」「また来たね」と余裕がない中でおっしゃってくれた言葉は本当に励まされ、「こちらこそ本当にありがとう」という気持ちでした。
    今後は「伝えていくこと」「繋げていくこと」に柱をおき、自分なりに、大学としても活動していきたいと思います。
    あと、この記事のことを他のメンバーにも広めます!
    本当にありがとうございました。
    時節柄、お体ご自愛くださいませ。

篠原 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。

Spam Protection by WP-SpamFree

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください