(東京事務局・タチバナ、ヨコヤマ)
東京事務局の2人は、「命のつかいみち」に登場する門脇小の様子を見てきました。
記事の内容に合わせ、写真にて現場をご紹介します。
(写真は2011/5/2に撮影したものです)
地震が起きた時、オレは石巻文化センターっていう、うちから歩いて5分くらい のとこにいた。
そこで、七宝焼を作っていた。お絵描き教室で使うバッヂを作ってた。
その日は渡波(わたのは)教室がある日で、 四時から教室なので午前中から七宝焼を作っていて、
三時までやるつもりだった。そんで二時五十分。地震。
すんごい揺れて。七宝焼で使ってた千度の炉が半分くらい落ちてきて、あやうく火事になるーって、
電源をぬかなきゃ、って思ってたら勝手にぬけて。色々なものが勝手に落ちてきた。
中央やや左にある、屋根が斜傾した白い建物が、その石巻文化センター。
この写真は次に登場する門脇小から撮影したもので、直線距離は約600mほどです。
そんで外みたら、みるみる北上川がひいていく。
こりゃ「やべーやべー」って 姉ちゃんと「にげっぺにげっぺ」って言って、
とりあえず柴田家に集合。
母ちゃんが家にいて、まだうろうろしてんの。
姉ちゃんに母ちゃんを頼んで、門脇小まで歩いていってもらった。
うちは避難場所は門脇小学校って決めてたから。
3階建ての校舎は火災によって消し炭とススで覆われ、校庭には乗用車の残骸が山をなしていました。
写真の中央付近が、正門のあったところ。
門扉や柵が設置されていた面影も、今は見て取れませんでした。
オレは車にのって、地域のひとに注意してまわっていたんだ。
そしたら前から来た車がパッシングしてくれてね。その車のうしろから津波が押し寄せてんの。
その時は川の方に向かって、車を走らせていてさ。
すぐUターンして「にげろーっ」て叫びながら逃げてね。
門脇小学校に急いで避難した。後ろからはもう津波が来ていた。
柴田くんは地域の人を避難誘導させたあと、消防団の車両を乗り捨て、門脇小に入りました。
写真は、現場から約100m離れた場所で見つかったその車両です。
百台近くあった車ががれきと校舎にはさまれていく。
潰れた車からガソリンが漏れて火がついて爆発がいたるところで起こってた。
記事通り、百台を越える車両が校庭に野ざらしにされていました。
火災によって塗装が剥げ、津波によって潮水に浸かったことで、すべてが茶褐色に錆び付いています。
校舎にも火がついた。でも玄関からは出られない。
門脇小は校舎の裏山ががけになっていて、校舎の二階とがけの間は1メートルはある。
若いひとはジャンプして、崖に飛び移っていた。
ここがその場所。
間は1mと、たいしたことのない距離と思えるかもしれませんが、間違えば4mほど落下することになります。
でも体の弱いお年寄りとかは無理。学校の中から板を持ってきて橋を渡した。
そして、そういう人たちを崖からひっぱりだした。
現場には、いまだ板が残っていました。教師が教室の前で使う登壇台を活用したようです。
写真右に見える裏山の擁壁との間を、ギリギリ渡せる長さです。
階段が終わったあとは坂道になるんだけど。
そこまでおんぶしてその辺の人に後お願いって言って裏山にまた戻って。その繰り返し。
学校の裏山にあるこの階段を、柴田くんは何度も往復しました。
近くにいた避難した人たちに声かけて、ロープつかって、みんなで協力して、おりて、
玄関とか崩れてて、どこからも入れない。
がけの方からおりて、がれきをわたって二階から助けた。
そんな逃げ遅れた人たちが十人くらいいた。
見える範囲はみんな助けた。重いおばあさんは二人がかりで運んだ。
いつの間にか手に血が流れてる、どこかで傷ついたらしい。痛みは感じない。
でも間違いなく俺の血だ。
工事現場でよく使われる黄色と黒のコーンロープをどこかから見つけ、
それを近くの木にくくりつけ、裏山を登るための手すりにしました。
柴田くんも下に降り、急斜面を登ろうとするお年寄りを押し上げ、助けました。
この日、ロープは残されたままでした。
……その後、柴田くんは記事にあるとおり、消防士とともに各地の消火活動の支援を行い、
翌日には家族との再会を果たし、石巻高の避難所に身を寄せることになります。
門脇小では、撮影を行った翌日から自衛隊が撤去作業を開始し、
その後、火災車両や瓦礫はきれいさっぱりなくなりました。
一日でも早い復興を実現するためにも、環境の改善は最重要課題です。
しかし、あの日にあったことも、一緒になくすわけにはいきません。
こうして記録に残し、語り継いでいくことも、私たちの大事な“使命”なのだと思います。
何度も何度も記事と写真を見ました。 前に読んでいた文だけでもすごかったと思いますが、写真を見て想像以上の惨事だったことがわかりました。
学校が丸焼けになるなんて誰が想像できたでしょう? 戦禍の中のようです。 グーグルマップでも山の手前は何もなくなっているんですね。 津波が一掃してしまった。。。。
ここでいったいどれぐらいの方が命を落とされたか・・・、生きたかったのに生きられなかったかを考えると、胸がいっぱいになります。
一度だけ名取の海岸の方の津波被災地を見には行きましたが、とても正視できずに帰ってきました。
生き延びることが出来た方は生きたかった方の分まで長く生きてほしいと願っています。
「命のつかいみち」、「命のつかいみちを行く」、この二つの記事は多くの方に読んでほしいと思いました。
何をコメントできるのか、長い時間悩み、キーボードに手がつけられませんでした。
「命のつかいみち」そして今回の記事については、本当に『言葉もない』『言葉が見つからない』のです。
その一方で、何かを書こうとすると、いろんな感情、思いがこみ上げてとめどなく長く書いてしまいそうで。
書き始めても何度も書いては消し,書いては消しで、まとまりません。
意味のないコメントになってしまい、申し訳有りません。
ただ皆様の
『しかし、あの日にあったことも、一緒になくすわけにはいきません。』
という思い、そして震災の事実を、記憶と心にとどめ続ける事が『僕の大事な"使命"』だと思います。
皆さんと同じ様に、私も、何を書いてよいかあの日の被災地を思うと解らなくなります。
ただひとつ、自分の持ち物や思い出の品を紛失しても人はショックでたまらないのに、自分の街が家が、大切な人の命が消えてしまったとしたら…
しげをはじめ、被災した方々のお気持ちを思うと胸が締め付けられます。
そして、あの日失ったもの以上に沢山の未来を作ろうと頑張る皆さんに、やはり毎日力を頂きます。
1人1人が「命のつかいみち」と向き合い、決断し、歩いているのですよね。
皆さん、亡くなられた方、潰された街…全てに教えて頂いたものを胸に、私も一日一日大切に命を費やしたいと思います。