命のつかいみち

命のつかいみち

地震が起きた時、オレは石巻文化センターっていう、うちから歩いて5分くらい のとこにいた。
そこで、七宝焼を作っていた。お絵描き教室で使うバッヂを作ってた。
その日は渡波(わたのは)教室がある日で、
四時から教室なので午前中から七宝焼を作っていて、
三時までやるつもりだった。

そんで二時五十分。地震。

すんごい揺れて。七宝焼で使ってた千度の炉が半分くらい落ちてきて、あやうく火事になるーって、
電源をぬかなきゃ、って思ってたら勝手にぬけて。色々なものが勝手に落ちてきた。

そんで外みたら、みるみる北上川がひいていく。
こりゃ「やべーやべー」って
姉ちゃんと「にげっぺにげっぺ」って言って、
とりあえず柴田家に集合。

母ちゃんが家にいて、まだうろうろしてんの。
姉ちゃんに母ちゃんを頼んで、門脇小まで歩いていってもらった。
うちは避難場所は門脇小学校って決めてたから。

オレは車にのって、地域のひとに注意してまわっていたんだ。
そしたら前から来た車がパッシングしてくれてね。その車のうしろから津波が押し寄せてんの。

その時は川の方に向かって、車を走らせていてさ。
すぐUターンして「にげろーっ」て叫びながら逃げてね。
門脇小学校に急いで避難した。後ろからはもう津波が来ていた。

後ろには車がまだいっぱいいて、門脇小の校庭にも避難していた車がいっぱいとまっていた。
校庭の方から津波がくるの。
オレはそのへんの人に「にげろっ」「にげろっ」て声かけながら、
今まで人生の中で一番早くダッシュしたよ。
水が来るというよりがれきと家が押し流されて来てた。

百台近くあった車ががれきと校舎にはさまれていく。
潰れた車からガソリンが漏れて火がついて爆発がいたるところで起こってた。
オレは学校のわきにある階段を走って登ってった。
校舎の一階から二階部分まで水が来たかな、水というか、がれきが。
学校の玄関は車とがれきでもう通れない。

実は門脇小の児童は既に日和(ひより)山に逃げていたんだ。
でもオレは家族がまだ門脇小の中にいると思ってさ、
門脇小の中に閉じ込められていた人たちも助けようとしていた。

玄関は車とがれきで通れない、車は潰れてガソリンに引火して燃えている。
校舎にも火がついた。でも玄関からは出られない。
門脇小は校舎の裏山ががけになっていて、校舎の二階とがけの間は1メートルはある。
若いひとはジャンプして、崖に飛び移っていた。

でも体の弱いお年寄りとかは無理。学校の中から板を持ってきて橋を渡した。
そして、そういう人たちを崖からひっぱりだした。

裏山は墓になっているんだけど、
墓の路地を抜けると、最初猛ダッシュで逃げた階段につながっている。
墓地を抜けて階段までたどりつく。だいたい四十〜五十段くらい。

校舎には五十人くらい閉じ込められていた。
若い人たちに「救助するの手伝ってください!」て声かけて、
門脇小の裏から救助するんだけど、お年寄りは渡るだけで大変。

お年寄りの人は歩けないんだよね。
「歩けー!、生きるんだよ!」

小学校からはどんどん火がまわって煙が出てきている。
オレ今まで年上の人にこんな言葉吐いたの初めてだよ。

でも、進まないから詰まってきている。
もう、早く出ないと進まないと後の人が出れないんだよ。
中には歩けないおばあさんとかいるから、
おんぶして連れだして、階段までおんぶして上がっていってさ。

階段が終わったあとは坂道になるんだけど。
そこまでおんぶしてその辺の人に後お願いって言って裏山にまた戻って。その繰り返し。

流れてきた車と校舎にはさまれて、足がちぎれちゃった人も運んだ。
山の上には幼稚園があって、そこまで運んで、
救急車は来れないからそのへんの人に車を呼んでもらってさ。
その時はまだ携帯がつながったんだ。

一人ずつ救助して十人以上おんぶして運んだかな。石巻は雪が降っていてさ。
門脇小学校に残っていた人は全員避難させた。

全員助けたあと、校庭のほうから「助けてー」の声が聞こえた。

がれきの山のぼって、どこだっーて叫んで、こっちこっちって声の聞こえるほうへ。
行きたくなかったけど、でもしょうがないから行った。火事がどんどん凄くなってる。
周りはいつ爆発するかわからない状態で、助けに行った。
そんな中でおばちゃんは「わたしの毛布がー」なんていってる。
うるせーって言ってやった。水でずぶぬれのおばちゃんをかかえて助け出した。

門脇小には小学生がいなかった。家族もみつからなかったから、逃げ遅れたんだと思った。絶望した。
その時「ああ、オレは一人ぼっちになっちゃったなあ」と思った。家族がいない。
でも家族の代わりってわけじゃないけど、その分まわりの人を助けようと思った。

階段登って坂道の上の幼稚園のところあたりで叫び声が聞こえる。
がけの下、がれきや崩れた家に押し寄せられた家の屋根に人がいる。
下からは火があがっている。たすけてーって声が聞こえる。一人じゃどうすることも出来ない。

近くにいた避難した人たちに声かけて、ロープつかって、みんなで協力して、おりて、
玄関とか崩れてて、どこからも入れない。
がけの方からおりて、がれきをわたって二階から助けた。
そんな逃げ遅れた人たちが十人くらいいた。

見える範囲はみんな助けた。重いおばあさんは二人がかりで運んだ。
いつの間にか手に血が流れてる、どこかで傷ついたらしい。痛みは感じない。
でも間違いなく俺の血だ。

いたるところで爆発があり、火がついて、どんどんその範囲が広がってきた。
助けたばかりの家いえが燃えていく。

せめて声が聞こえたところは見殺しにしなくて良かった。
でもがれきの奥にも人がいるのはわかってたんだ。絶対いた。

でもそれ以上は無理だ。オレは見てみぬふりをしたんだ。ただ目の前の人を助けた。

火の向こう、がれきの奥、そこにいたのが家族だったら行ったかもしれない、

けど、知らない人を助けにいくことはできなかった。

それから二、三時間後にはそこは火の海になった。

もう、オレは、その場にいた人たちを助けられたからよしとする。
…でも、やっぱりそこには確かに人はいたんだ。いっぱいいた。

救助活動して、三時間ぐらいしてまわりは暗くなって、ようやく消防士さんがきた。
ほっとした。これで役目を変わってもらえる。
とてもじゃないが火の海のなかガレキをわたって救助活動はできない。
そういえば消火活動を手伝ったりしてる中で、
火の海のがれきの中から飛んできたひとがいた。

その人は、屋根の上にのぼって津波を避けて、
その後がれきの山をのぼってオレたちがいる所までやってきた。
それから石巻市立女子高校に連れて行ったんだ。
そんでその受付では、情報収集できるところがあって、
オレは門脇小の子供たちの行方を聞いたんだ。

すると、どうも日和山に逃げたらしいことがわかった。
それだけでもものすごく安心した。津波にのまれたと思ってたからね。
でも家族の行方はわからない。

被害の少ないほうへ歩いていると「助けにきて下さい」って呼びにくる人がいる。
屋根の上に避難して取り残されているって話だった、でもそうじゃなかった。

津波にのまれたあと、その建物には塀があって、
逃げ場をなくした津波が体を屋根にのせただけだった。
屋根に逃げたわけじゃない。すでに死んでいたんだ。

オレのかかりつけの眼科の先生だった。
ロープかけておろし、また運んで。大人六人で運ぶ。重い。
先生を道路のわきの目立たないところまで運ぶ。

先生、こんなところでごめんな。こんな汚い毛布でごめんな。水びたしでごめんな。
雪がちらつく。

そのあとは消防団の二人と合流して三人で火事場の後方支援にまわった。
交代で消防署の詰め所にいって一時間ほど休憩させてもらった。

三人が一緒になって動いていたんだけど、オレは耐えられなくなった。
休憩のとき消防士さんの邪魔になるのが耐えられなかった。外は雪も降っていてすごく寒い。
プロの消防士さん達はオレたちに気を使って、
ストーブの近くを譲ってくれて暖をとらせてくれるんだ。
ホントは消防士さんだってすごく寒いはずなんだ。なのにオレたちが邪魔をしている。
貴重な水だってわけてくれた。

だから一緒にいた消防団のリーダーに言ったんだ。

「オレは耐えられないっす。我々も一般人におりて、邪魔にならない方がいいんじゃないですか。」
でもリーダーはうんと言わなかった。

おれはこの時にやめると決めた。でもこの一晩だけは我慢した。
朝方、日和山に行った。友達の大ちゃんが山にいるのはわかってた。
大ちゃんと合流して車の中で休ませてもらった。

大ちゃんからあけぼの方面の知り合いの家 にオレの家族がいるという情報を聞いた。
初めて生きた心地がした。

すぐ山を降りて向かおうとすると、山のまわりを水がかこんでいるんだ。
肩から腰の高さくらいまでかな。お城の水攻めのように。それに車がいっぱいあった。
携帯も通じない。オレは孤立していた。だから東京のみんなにも連絡とれない。

そんで、また山に戻っていったら、
そしたら本当に偶然なんだけど、
前方に姪っ子と甥っ子と姉ちゃんが歩いていたんだ!
そこで車から飛び出してさ、「あかりー!ゆうきー!」って叫んで。

朝がたに家族全員と合流できたんだけど、避難先の知り合いの家にいるのは申し訳ないから、
石巻高校が避難所になっていて、そこに行ったんだ。

避難所は水も食べ物ない、暖房だけはあった。最初の日に配られた食料なんだと思う?
せんべいがひとり一枚。
水はペットボトルがあったかな。

でも、あったかいから、それだけでもうれしい。毛布もないので、床にゴロ寝。
十二日の夜はそこで一晩過ごした。
十三日、配られたのは温めるまえのレトルトカレー。
温める方法ないしね。全部で10パック。これを二百人で食べるんだぜ。
オレたちは家族で分けた。あとはお菓子が少し。それも子供とか優先で。

柴田家はさ、防災バックを持っていたので、ビスケットやチョコレートがあった。
だから我々はお菓子はもらわないでおこうってなった。
その時の石巻はさ、通信手段、交通手段も何もない。出られない。
災害情報をまとめていたのが、市の職員だったけど、
たぶん元々の能力もなかったんだと思うけど、
本当に全然動けない。指示がないと何もできなかった。

市は全然だめで、みんなもオレが市とのつなぎをやってくれていると思っていた。
配給物をわけたり、くばったりするのね。豆腐を3切れずつとかね。
役所の平等悪のせいでこんなへんな指示がくるの。
それを喧嘩にならないようにみんなに配ったりね。

それから二、三日お世話役を続けてたら、他にリーダーをやってくれるような人が出てきた。
俺よりももっとしっかりした年配の方が。俺は任せることにした。

震災から一週間くらいかな、
街の道に残った津波の水が少し減って歩ける距離が少しだけ増えたころ、
避難所はもちろんまだ電気もない。歯も磨いてない、当然風呂も入ってない。
夜は六時くらいには周りは暗く、寝るしかない、寝ても夜十時くらいに目が覚めて、眠れない。
起きてもやることない、ほんで、本当暇なのね。昼間も雨だと歩けないし夜もやることないし。
ご飯食べて水飲んで。寝るところはあるし。

スケッチしに震災した街に出たが描いてる途中で吐き気がしてくる。ちょっといまは描くになれないなと。

そんでね、そこからこの残った命を使って何しよう。って考えた。絵も描けない俺が何できるだろう

オレは一体何ができるのか。
そしたらお絵描き教室しかないなあ、そんで子供のケアだべなあと。

その頃にやっと携帯が復活して、東京のタチバナと電話できて、
この教室の協力と物資を送ってくれって話をしたんだ。
まだまだ道路は出来てなく流通もしてなかったけど。

避難所のリーダーたちの会議があって、そこで子供のケアを提案したんだ。
そしたら、リーダーの一人の高橋さんが「いいね」と言ってくれた。
そんでとにかくやってみることにした。

避難所の近くの無事だった近所の家をまわって、
こんなことするからペンとかクレヨンとか紙とか下さいって、
良子さんやゆうきやあかりに協力して貰ってかき集めた。

本当はお絵描きに通ってた子供をみてあげたい。でもいまは出来ない。
おれにいま出来るのは避難所のこどもたちにやってあげることだけ。

その頃は、新聞が届くようになったんだ、そこに安否情報がのるんだよ。
お絵かき教室のこどもが二人亡くなってた、行方不明が一人いた。
いまも連絡のつかない子がたくさんいる。悲しい。悲しすぎる。剣道の仲間も亡くなった。

逆に人づてに俺が生きてるの聞いて、何とかオレに連絡とってくれようとしてる子供もいた。

だからね、いま一緒に生き残った人たち、避難した人たちも含めた、
いま生きてるみんなのために生きようって思ったの。みんなも生きようって。

じゃあそうやって命を使おう。残った命をそう使おう、
と思って今に至ってます…

やるべきこと。今「生きてる石巻の人」に生きて欲しい。
なくなった人の分まで生きて欲しい。

===================================
これが「命のつかいみち」と説明したあとも、とりとめもなく電話は続いた。
===================================

石巻の現状、仕事もない。家もない。家族もない。
お先まっくら。市の方は何も言ってくれない。
光が見えないんだよ。

普通のひとたちは自分の力じゃできない。結局いつも何かを待ってるんだ。
だれかが、国が、なんとかしてくれると思ってる。

さっきタチバナに電話で怒りのメールを書いてるっていったじゃない?
それはさ、絵を描いてくれと言われたんだ。

そんな、オレの気持ちも描く気にもなってない。何もない。
百号のキャンパスと絵の具送るから描いてくれよと。
何言ってんだよ。そんなの置く場所、描く場所がどこにあるんだ。
いまは描きたくない。描きたくなったら描くよ
善意の押し売りはやめてくれって。
そんな失礼なメールを返して後悔もしている。

この石巻の現状がわからない。ただ被災してわからない。先が見えない。
精神的な不安をみんな持ってる。それを何とかしないといけないんだよ。

市が今一番だめだ。ひどすぎる。
オレはある意味自立してるからいいけど。
そんな市がまだ何かしてくれると思っているまわりのひとたちがいる。
そんなひとたちを何とかしないと。

市役所のひとたちは仕事が今までもあった。これからも給料は入るじゃん。
それなのに「人材がいません」とかぬかすんだよ。

今日本中から物資が送られてくるけど、いらないものとか必要ないものとか。

でも復興で仕事をくれ。仕事をしたいやりたくてもできないんだよ。みんな石巻に残りたいんだよ

物資をくれじゃなくて、復興のための仕事が欲しい。

それがわたしの気持ち。

それでも市はボランティアを三人くらい紹介してくれた。
今まで何やってんだよ。って思う。それでも頭を下げて、
おだてて、利用してやらないと。
やりきれない、行き場のない。

震災後はじめて風呂にはいったのは八日目だった。
最高だったね。
オレは姉ちゃん家があったからね。
あけぼのは石巻でも被害が一番すくないところだった。
電気と水道がつうじてね。
九日目に初めて歯を磨いた。

オレの友達は昨日はじめて風呂にはいったってよ。三週間以上だ。

風呂はいった次の日さ、すぐバレたんだよ。避難所の仲間に。バレると思ってヒゲは
そらなかったんだけどさ。「なーんか髪がさっぱりしてるんだよねー?」って言われてバレた(笑)

ビール飲んだのが2週間目
350缶半分でべろべろになった。
めちゃくちゃうまかったよ。
めちゃくちゃよっぱらった。

一番不便だったのがコンタクトだな。
メガネは流されたし。オレは使い捨てだったから、二日目くらいであーこりゃやばいなーって思って。
それから裸眼でなんとか。仙台に行けるようになったのは十日目。そこでメガネ作った。

 

 

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命のつかいみち への6件のフィードバック

  1. かやま のコメント:

    何か書こうと思い 何度も書いては消して、最後には何も書けませんでした 被災地の柴田さんの力強さを逆にいただき  1歩1歩 1日1日 少しでも明るくなるといいですね 

  2. 匿名 のコメント:

    一歩一歩前に進もう 今日も頑張れ

  3. スイステレビ 小林 のコメント:

    大変おつかれさまです。
    体験、現在の活動について読ませて頂きました。
    スイスの国営放送スイステレビと申します。
    私どもは是非子供たちにフォーカスして取材、報道ができないかと考えております。
    お知恵を頂けないでしょうか。
    大変お忙しい中恐縮ですがご連絡いただければ大変幸いです。
    スイステレビ 
    小林
    090-9319-0248

  4. ちょん のコメント:

    東京からです。
    知り合い土木会社に、岩手の下水工事の依頼が来たと
    いう話を聞きました。
    地元の方で専門職の方を探して職の提供をすることは
    できないのでしょうか?それをもってしても人材が足りず
    わざわざ東京から人材を調達する。そこまで足りないの
    でしょうか。
    仕事は人を活かして生かしてくれると思っています。
    これから、下水は修復、建築は新規建築ラッシュになって
    くるので、ぜひ地元の方に存分に力を発揮していただく
    場を提供できたらと心から思っています。

  5. のコメント:

    言葉になりません。
    これを見て涙が自然とでて
    手が震えました。
    私は仙台市宮城野区に住んでいます。
    3・11は祖母と二人で自宅にいました。
    その際、食器棚から食器が落ちてきて
    パリン、パリンと何枚も割れてしまいました。
    その音が怖くて怖くて仕方ありませんでした。
    初めてこんなに大きな地震を体験しました。
    それでも私なんかよりもっともっと酷い状況の
    方が大勢いるし、しっかりしなくてはとずっと
    思っていました。
    電気が通ってやっとみれたテレビから
    みる映像は津波津波…でもいまや原発の
    ものが多くなってきました。
    私は、今…勿論原発も気になりますが
    それよりも被災地の事を知りたいと思っています。
    知ってどうするのか…分かりません。
    それでも何かを知っておきたい。
    何も出来ないけれど心から祈ることしかできないけれど
    それが偽善のように見えるかもしれないけれど、
    たくさんの命が奪われた中でたくさんの命が助けられたことも
    また事実。その中でメディアにはとりあげられなくても
    そこには確かに命のやり取りがあったということを
    忘れてはいけないのだと思いました。
    なにを言いたいのか全然わからないですが
    これからもっともっと自分は自分のできることを
    していきます。
    本当に心よりお見舞い申し上げます。
    仙台市宮城野区住み18歳、來より。

  6. 井上尚子 のコメント:

    柴田様
    復興に向けての毎日、応援しております。
    アーティストの井上尚子と申します。
    この度、朝日新聞社の島康彦さんよりご紹介を受け、御連絡致しました。
    避難所の子供達にむけて、ワークショップを届けられましたらと現在、アートワークショップを計画中です。
    柴田さんが運営されますこども避難所クラブで子供達とワークショップができましたら嬉しく存じます。
    復興まっただ中、学校も始まり、柴田さまも大変御多忙と存じます。お時間ございます時で構いませんので、このプロジェクトを子供達に届け、一緒に過す事ができましたら幸いです。詳細はメール致します。
    アーティストや様々な分野の人たちと共に、少しでも子供達の心を解放できる時間を一緒に過せましたらと考えております。
    ご検討を頂けましたら幸いに存じます。

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